2008年11月29日土曜日

北前船(きたまえぶね)はなぜ日本海を通った?

  • 対馬海流のルート
  • 北前船のルートは、大阪→瀬戸内海→関門海峡→北陸(越前、加賀)→北海道の松前(函館近辺)でした。対馬海流は、海の中を小走りぐらいのスピードで走っています。北前船は1900年頃(明治30年代)に鉄道網が形成されるまでつづきました。
  • 1609 年家康は、船は500石積み以下とすることと決めました。マストは1本だけにし、甲板(かんぱん)は禁止でした。船を甲板でふたをして沈まないようにする ことは許されませんでした。その前の時代には、複数のマストをもった多帆船(たはんせん)が南方へ遠洋航海していました。家康の禁令により、波の荒い太平 洋岸の航海は不可能になりました。
  • 秋田県や青森県の津軽側では暖かい対馬海流のおかげで、物成りは豊かでした。
  • し かし、岩手県側には、寒流の親潮が南流しており、稲作には向いていませんでした。太平洋側では、冷たく湿った北東風のやませ(山背)のため、雲や霧が発生 し、日照時間が少なくなり、気温も低くなり、凶作、飢饉をおこしました。ある時代には3年に1度の飢饉がありました。(「やませ」は山を背にして吹く風で はなく、闇風(やみかぜ)からの転化といわれています。)
  • 米=貨幣=信仰でしたから、米のとれない南部藩は貧しくわずか10万石にすぎませんでした。(伊達藩は実質200万石でした。)司馬遼太郎は、古代の日本に食肉の習慣があれば、飛鳥走獣の豊かな南部藩はデンマークのように繁栄したであろうといっています。
    北前船 石川県庁